むかーしむかし、別の場所でアップしていたブログの加筆修正。
2012年当時の講演記録に基づく考察のリライト版です。
ジェンダーという言葉の定義から
まず最初に「ジェンダー」という定義から。
ジェンダー=社会的な性、性差、性別。
対するところに、生まれ持っての性(生物学上の性)=セックスがある。
社会的な性、というのは、社会によって形成される性別ということ。
言い換えるなら、性別規範や、性別役割分担。
つまり「女なんだから~」とか「男なんだから~」とかいうのが「ジェンダー」。
ではなぜ、生物学上の性と社会的な性を分けるのか。
「分けたほうがいろいろ説明しやすいから」
例えば、社会的な性と生物学上の性が一致しない人もいるし。(性同一性障害)
一致していても、社会的な性に生きづらさを感じている人もいる。
だから、分けて考えたほうが説明しやすい。
なぜ今「ジェンダー」なのか
・生物学的側面に対して、社会的側面(成長していくうえで、社会から身に付けるもの)の重要性を解くため
・マイノリティ(社会的弱者と言い換えても良い)の視点から、これまでの世界観の再構築(再検討)を図るため
→「大まかに考えて人口の半分は女性なのだから、女性はマイノリティではない」という意見もある。しかし、社会(特に日本社会)を構成している人の多くは男性であることを考えると、女性もマイノリティといって差し支えない。
・マイノリティ視点の重要性を解く
→男性中心社会、白人・西洋中心社会の再検討。
・女性の地位向上のための運動にもつながる
プリンセス・ストーリーにみるジェンダー観
と、小難しい話をしたところで。
「ディズニーのプリンセス・ストーリーにおけるジェンダー観」について語っていきたいと思います。
まず、プリンセス・ストーリーとは、「プリンセスの物語」です。
そのまんまやーん! …だって、それ以上に説明のしようがないもの。
まぁ、ここで取り上げるのは、『白雪姫』・『シンデレラ』・『眠れる森の美女』の3作品です。
今では、ディズニーもいろいろ作戦を練ってきていて、『アラジン』や『リトル・マーメイド』『ムーラン』など、ちょっと系統の違う(どう違うのかは後で)作品も出てきているけれど。
ここでは、古典的なプリンセス・ストーリーを中心に説明していきたいと思います。
まず、『白雪姫』に見られる性別規範について。
・こびとたちによる「女のくせに…」「だから女は…」というセリフが多くみられる(現在、小人は差別用語ですが、いちいち「小さな人たち」とか「小さな妖精さんたち」と書くのがめんどくさいので、ここでは「こびと」と、ギリギリセーフな書き方で説明させていただきます。)
・こびと(男性)は外で働き、白雪姫(女性)は家で家事をする。
などなど
そして『白雪姫』の謎
・王子と一目で恋に落ちる。←まだこびとの下に行く前、お城の外階段らしきところを掃除している白雪姫を王子が見つけ、二人は突然デュエットする。そして、恋に落ちる。
・白雪姫は、王子をひたすら待つ。←自分から探しに行こうとはしない。
・最終的に、白雪姫は生き返り、すぐ王子と一緒になる。←今まで一緒に住んでいたこびとたちのことはまるで無視(一応、おでこにキスをする程度)。
そんなところから、古典的プリンセス・ストーリーについて、定義したいと思います。
・王子と結婚して幸せになる。
・主人公は若く美しい。
・王子は、主人公の美しさに一目で夢中になる。(性格は関係ない)
・主人公は王子をひたすら待つ(自分から動こうとはしない)
・王子は(時には困難を克服し)、主人公を迎えに行く
・二人が結ばれたところで話が終わる。
これ↑が、どういうことを教えているのかというと、
・女性は、男性と結婚することによってのみ幸せになることができる。
・社会的地位の高い男性と結婚することによって(プリンセスストーリーにおいては、王子の付属物となることによって)、社会的地位が上昇する。
・結婚が目的(ゴール)であり、その後の生活は問題にはならない。
・女性の人生は自分の努力ではなく、運命による。
→いつか王子様が
・女性は待つのみでよい
→女性は受動的であることが推奨される
・女性は、美貌と従順さで評価される
→美しく(ここでいう美しさとは、西洋的な「可愛らしさ」)従順であれば、王子が現れ、幸せになれる(結婚できる)
余談ですが。
プリンセス・ストーリーは、あくまでも女の子のための物語なので、男性は没個性化しています。
例えば、王子の性格や顔立ちに明確な特徴はありません。
ひどい場合には、名前すらない場合もあります。
なぜなら、必要なのは「王子」というステータス(地位)であり、キャラクターは関係ないからです。
シンデレラ・コンプレックス
さて、次にプリンセス・ストーリーによって、無意識に刷り込まれると言われる意識「シンデレラ・コンプレックス」について語りたいと思います。
シンデレラ・コンプレックスとは、アメリカの作家Colette Dowlingが彼女の著書で提唱した概念です。ざっくりいうと、
・他者(主に男性)への強度の依存
・自分は無力であるという思い込み
・女性は可愛らしく、弱い存在であるべきという思い込み
・女性は可愛らしく、弱い存在であるため、誰か(主に男性)に守ってもらわなくてはいけないという思い込み
の事といってよいでしょう。
プリンセス・ストーリーを女性のサクセスストーリーとするということは、
◆成長しても幼児性に固着する
(可愛い、保護が必要と思われるのが女性にとって望ましい生き方であると思うようになる)
◆強い男性に承認されることを「幸福」と捉える
他者を受け入れ続けること、自らの受難をただひたすらに受け入れ、耐えしのぐことを「寛容」と呼び、その受難を「寛容」を持って受け入れ続けることで強い男性(ディズニープリンセスにおける王子)に承認される(名誉男性として扱われる、あるいは結婚して隷属する)ことを「幸福」と呼ぶようになる
これらシンデレラ・コンプレックスの背景には家父長制社会があります。
家父長制とは、家の中でより年長の男性…多くの場合は、その家庭の父親…を中心に形成される家庭環境のこと。(東アジア、ヨーロッパ、北アメリカに多く見られる)
ウォルト・ディズニーの家庭は、典型的な家父長制家庭だったと言われています(このあたりは資料もたくさん出ているのでそちらを見たほうが詳しいかと)。
ディズニーと家父長制
古典的なディズニーのプリンセス・ストーリーとは、「ウォルト・ディズニーによる、家父長制の再生産なのではないか」と言われています。
ディズニーの古典的プリンセス・ストーリーが作られたのは、20世紀半ば(白雪姫:1937年/シンデレラ:1950年/眠れる森の美女:1989年)。女性に参政権が与えられたり(ディズニーの国、アメリカでは国家によって婦人参政権が認められたのは1920年)して、女性の地位が向上してきたと言われる時代。
家父長制が女性に求めるものは、ケア労働です。家事、育児、子どもの教育に始まり、近所づきあいや周囲との関係構築。加えて、家父長が様々な事情で収入を得られない場合には家父長に代わって稼ぎながらケア労働までこなし、それを「寛容」に受け止め男性を一家の長として敬うこと。文章にするとやべーなって思いますが、共働きでも家事や育児は女性がメインで行っている(男性は「家事を手伝う」「子育てを手伝う」という体)の家庭は少なくありません。
家庭内におけるケア労働は再生産労働とも言われます。これについて語るとめちゃくちゃ長くなるので今回は割愛。
女性の地位が向上し始めると、家父長制が崩壊するとも言われています。
そりゃそうですよね。女性が男性と対等に教育を受け、社会的な保証を得て収入を得、ケア労働も半々、そうなったら「家長として君臨する男性のみが家庭を支配する」家父長制なんてどこかへ行ってしまいます。
ウォルト・ディズニーは、「古き良きアメリカの家庭」に憧憬があったのではないでしょうか。
家父長制云々は脇に置くとしても「昔はよかった」と語りたい人は多いものです。
人は過去の悪い出来事をさっさと忘れてしまうため、良い印象のほうが残りやすくなります。同程度に悪いことと良いことが起きていた場合、良いことのほうしか記憶しないんですね。
また、若いころの自分に憧れる癖があります。若さそのものと若いころの環境を混同してしまい「あの頃はよかった」と思うんですね。もう一つ、だれもが自分の選択を否定されたくはありません。どんなに間違えていても「仕方なかった」と思いたいものです。
これらが組み合わさると「いろいろあったけど、昔はよかった」みたいな過去美化バイアスが生じるのです。
ウォルト・ディズニーにもその傾向があったんじゃないでしょうか。
参考にした一冊 ―『アップルパイ神話の時代』
この時代(1900年代初め~中ごろ)のアメリカ家庭(主に主婦)について書かれた本で面白いのが「アップルパイ神話の時代」。
アメリカ人(男性)の好きなものは「ママと星条旗とアップルパイ」と言われていたそうです。
この本は、そのアップルパイがどうしておふくろの味と言われるようになったのかを紐解きながら、メディアによる洗脳って怖いねー。と、語っている本。
この本によれば「モダンな主婦」というのは、「できる」&「かわいい」の二本柱からなっているとのこと。
20世紀の初めまで、中流階級以上のアメリカ家庭では、家事はメイドの仕事でした。それが、1920年代の絶対移民制限方施行と世界恐慌で、メイドを雇うことが困難になった家庭が増え、女性(妻)が家事を代行しなくてはいけなくなったのだとか。
これが「モダンな主婦神話」の始まりです。
家事を上手にこなせる女、そして、夫に愛される女、それこそが理想の主婦。理想の女性像。
「おふくろの味を彷彿とさせる美味しいアップルパイが焼ける。すると、夫は大喜び。それこそがあなたの幸せ」と、家庭雑誌をはじめとするメディアが、20世紀アメリカの中流階級以上の白人女性たちを様々な語り口によって、刈り込んでいった。…らしい。
べつに、白雪姫のりんごとアップルパイをかけようとおもってこの本を参考に出したわけじゃないですよ?
ほんとに面白いんです。この本。絶版なのかな…
その後のディズニープリンセス
確かに、言われてみると、ディズニーの古典的プリンセス・ストーリーは、「家父長制の助長」を促しているよな、と思います。
もちろん、プリンセス・ストーリーを描いているのはディズニーだけではないけれど、その影響力の大きさを考えると、ディズニー、特に、初期のもの…が果たした役割というのは重要ですし。
最近のディズニーアニメ(例えば、リトル・マーメイドとか)では、プリンセス(アリエル)はただ待つのみではなく、自分を犠牲にして王子に会おうとしたりするけれど。でも、最終的には「王子様と結婚して幸せになりました」っていうオチだし。男を立てる・男に尽くすといったエッセンスも随所に散りばめられているわけで…。語り口が変わっただけで、男性が主で女性は従という枠組みが依然としてなされているといっていいと思う。
「アラジン」は、どうなの? 女性の方が地位が高いんだから、(アラジン→一般人/ジャスミン→王女)女性が主なんじゃないの? という意見もあるかもしれないけれど、アラジンはジャスミン姫にとって白馬の王子様、というスタンスだから、これも結局、男性が主で女性は従という枠組みと言えると思う。
(注:これを最初に書いたのは、2012年。その当時は『小さなプリンセス・ソフィア』や『アナと雪の女王』などはまだ公開されていませんでした。これらの作品を見てからは、もう少しディズニー映画に対する感想も変わってきています)
おわりに ― プリンセスと「女の子」扱い
だからといって、ディズニーは悪だ! 女の敵だ! とか言っているわけではないです。
実はミッキーマウスはあまり得意ではないけれど、ディズニーリゾートは楽しいと思うし。大好きです。
ショーの出来栄えだってすごいと思う。
ただ、「女の子はみんな、ディズニープリンセスが好きだよね」みたいな決めつけはナンセンスなんですよ。
いや、プリンセス、素敵ですよ。お姫様の恰好大好きです。ドレス着たい。
でも、「いつまでたっても『女の子』扱いで、『女性』に成長させたくないという意識が働いているのはダメ」だよね。と。
女性自身が「プリンセスでいたい」と思うのと、周囲が「プリンセスでいさせたい」とするのは別。
日本は戦う女の子(プリキュアとかとか、主体性を持って、自分自身で問題を解決する物語)が多い国だから大丈夫だよ! というあなた。「女の子」というのが問題です。…という話もしたいんだけど、長くなるのでまた今度~。